賢木 藤壺が語る自身の物語

 

私(わたくし)は、あの人が怖かったのです。(お経の声が入る)

世間は疵(きず)を求めています。(紅葉の賀3・2・12)
私(わたくし)は不安でなりません。
世間の目。そして弘徽殿。
私(わたくし)のあの「秘密」を知られたら、息子がどんなことになるか。
息子は帝のお世継。

息子が四歳のとき、夫、桐壺の帝はお隠れになりました。(賢木1)

私(わたくし)は帝が「秘密」を知らないまま、お亡くなりになったことに、言いしれぬ罪を感じ、恐ろしかったのです。(賢木3)
息子の本当の父は源氏。

息子が出生の秘密を知らないことでも、よくないことが起こるのではないかと心配です。
高野山の僧侶に相談して、加持祈祷も続けておりました。

それなのに、どう召使に取り入ったのか、また家にやってきたのです。あの男。(賢木3)
あの日以来、ずっと避け続けていたのに。
源氏はまず言葉に表せないほど美しい言葉で口説いてきました。
私(わたくし)は、強い心で、冷たくつきはなして、源氏を追い返そうとしました。
でも、源氏は恨み言を続けながら、すっかり我を忘れています。
私(わたくし)の心に、今までの悩みが、心の鬼が、一挙に押し寄せてきました。
私は胸が苦しくなり、そのまま失神してしまいました。

失神している間に、私の兄や、親戚や僧侶が集まっていたようです。
気がついたときは、次の日の昼でした。
私が、果物を食べ、病み上がりの体をのんびりさせていると、
塗籠(ぬりごめ)という部屋から、隠れていた源氏がでてきてひとえ単のすそをつかむのです。
私は、驚いて、服からすべり出して逃げようとしました。
しかし、源氏は長い髪までつかみ、「せめてふりむいてください」とか「年月を経てなお美しくなりましたなあ」とか話し続けます。
「心地が悪いのです。このような時でなければお話もいたしましょうに」
あの人が思い乱れて泣き始めると、私はなぜか無性に情けなくなりました。
私は優しくしながらも、言い逃れ、結局明け方までかかりました。
源氏は「少しだけでも会えて、憂いが晴らせて満足です」と言って、やっと帰りました。
私は源氏が気の毒でもあり、ヤケをおこすのではないか心配でもあり、息子のためにも、このままではいけないと思いました。

そして、私(わたくし)は、このとき、あることに気がつきました。
私は、何が、情けなかったのでしょう。
私のわざとする態度が? それとも、私の人生が? 
私は、どうして、こんなに動揺しているのでしょう。
他ならぬ私が、源氏を呼び寄せていたのかもしれません。

「長き世の 恨みを人に 残しても
かつは心を あだと知らなむ」
恨みというのは、いつまでも続くように思えるもの。
しかし、本当は、こころは、変わってゆくもの。
男のあなたは私を恨む。
あなたにも知ってほしい、世界は変わることを。
わたしも変わることを。

私(わたくし)はまず、六歳になった息子に、計画を打ち明けました。(賢木3の2)
「お母さんの姿が醜く変わったらどう思う?」息子は笑っています。
「じゃあ、おかささんとあまり会えなくなったら?」
こんどは、向こうを向いて泣きはじめてしまいました。

そして帝の一周忌の法要の最後の日、わたくし私は、皆の前で出家を発表しました。(賢木3の5)
こうでもしないと、私の決意が揺らいでしまいます。
私はその場で、前もって呼んであった比叡山の僧侶に長くのびた髪を切って頂きました。
皆は私の出家という予想外の事態に驚いて泣いていました。

やっと、宮中の争いを捨て、疎ましい世間を捨て、おおかたのつらいことは避けることができました。
でも、いつになったら完全に、この世を捨て切ることが、できるのでしょう。
子供のためでしょうか。それとも・・・

尼となって、仏の道に入った私は、随分心の余裕ができました。

息子のことが気がかりでもあり、源氏にはわたくし私からお話もし、たびたびお手紙も出しました。(須磨1・6と3・4)
考えてみると、源氏もよく秘密を隠しとおしてくれました。(須磨2・2・16)
息子のことを考えていてくれるのでしょう。

私は出家して、自由な心を得ることができました。
心の中にずっといた鬼が、消えたようです。
宮中にいた時は、源氏に情をかけると、人の咎めをうけそうな気がしていました。
しかし、今や源氏をしみじみと恋しく思いおこされます。
これが、ずっと抱いていた、本当の気持ちだったのかもしれません。
いまでは源氏へのお便りも、細やかに愛情をこめて書きます。

尼となり、私は宮中に入ってから今までの間に、十三歳の時から二十四までに、
失われた人生の嘆きを積み重ねているような気がいたします。
あなた、源氏の君は涙を積み重ねましたね。

まもなく息子は即位するでしょう(澪標5)
願わくは、息子が安泰であり、
息子も世間も出生の秘密を知りませんように。