説明、論説文を「感情的」に読んでみる

 「しかし」(逆接)のあとが筆者の言いたいことだなどと言われる。実は「しかし」というのはただ反対のことをいうだけではなく、筆者の読者に訴えかける感情が「しかし」を使わせているといえる。たしかに、小学生からいつも使っているのだ。「おかあさんそう言う『けど』、ボクは…」

 説明、論説文は、物語文と違って感情から離れた味わいのない無味乾燥の世界のように見えるのが、苦手なのかもしれない。一人で読んでいると眠たくなったりする。ちょうど法律に興味ないのに六法全書を読むようなものか。しかし、読み聞かせる、音読することで、黙読ではなかなかわからない「感情」の流れが実はあることを見つけられることがある。もちろん、高校レベルでは終始知的で感情価のない文章が多いし、小学生でも無味乾燥の科学的文章というのがある。だが、家庭教師の時間に、少しオーバーに読むと、小学生に限らず高校生でも聞くことで理解できたということがあるようだ。

 例えば、二つのものや事がらををくらべている場合も説明・論説文には多いが、これもたいていはじっくり読むことで、筆者がどちらに「味方」をしているのかがわかる。そうすると、自然に筆者の言いたい大事なところがつかめるだろう。

 一人で読んでいても頭の中に具体的な姿をイメージしにくいのが説明文だ。そこで、頭の中の作りかけのイメージと、文にメリハリをつける感情とを切り離さない方が、理解しやすいのではないかと思う。

  手がかりはいろいろあると思うが、わかりやすいのはつなぎことばだ。つなぎことば(接続詞)(や副詞、係、副助詞も)は単調になりがちな説明的文章に感情的なうるおいを与えているといえる。また、書かれている内容や言葉がわかりにくかったり、知識がないときには、つなぎ言葉をたよりにだいたいの意味を推理することもできる。

 無味乾燥の代表、法律の文を見てみると極端にこれらの言葉は少ない。(たとえば憲法前文に出てくる接続詞副詞は「そもそも」「ここに」「ふたたび」だけで、かえって気持ちの込められた強い印象を与えている。)

 大学受験程度になると重層化、分化した文章が選ばれるので、無味乾燥さが増すように感じられるし、実際そうだ。しかし、この場合はイメージとしてでも本文の文化的な位置づけを考えると良い。たとえば、近代―ポスト近代の文脈などはよく取り上げられるが、社会的哲学的背景を知っておくだけでも筆者の視点がわかるというものだ。

 さて、もちろん、誰でもこれが同じ解決策と言うわけでもない。私が家庭教師で教えるときも教え方はその子どもによるとしか言いようがない。